画像の問題系 演算性の美学
それぞれに固有の呼び方がされていた
写真、絵画、漫画、イラスト…と
それぞれの美学的体系のイメージ
現在では画像という枠組みで語られる 音源 や 動画 も同じ コンピューター・電子計算機において画像は記述される
画像のデータはそれを誰かがフォーマットを定義してプログラムとして実装しなければ存在しえない
ビットマップ=ヴェネツィア派 ベクター=フィレンツェ派
eidos=実現されたイデア
イデア論的にはまあ分断されたもんじゃないという話
二項対立の解体に意識的な論考
半ドットとかこすい
最小で十全に完結している状態
ビットマップ bpm 幼鳥が大きいから不普段は圧縮される
サイン波で記述する
音声処理にも使われている
フーリエ変換で画像が出てくるる
GIFとJPEGどっちが硬い
youpy「GIFの硬くてjpgはぬめっとしてる」
1ピクセル
実際に1ピクセルを拡大する作品
1pxは実際に拡大すると汚い
計算な概念としてしか1pxはない 人間の頭の中とコンピューターのなかにしかない
ギャラリーに入ってすぐに居るためdelispやモニターを踏まないといけなくなる
データモッシュ
低解像度の話
メディアが発達すると透明になる
あえて低い解像度やグリッチの貧しい状態で画像が持っている筆触のようなものが蘇る
絵画的なアプローチ
筆触=画面に触れるインターフェースとしての筆
ヘッダは破壊しないほうがいい
適当に入れ直しても見えるのがJPEGの堅牢な部分
フーリエ変換の波が見えたりする
MP4面白い
止まる
Audacityグリッチ
ブラウザによって使うレンダリングエンジンが違うから実は見ている画像が辿っている経路は異なる
誰にとってグリッチか?
コンピューターにとっては開けているからグリッチではない
人にとって変に見えてるだけで画像が開けているからデータは壊れていないという説
グリッチ音楽
まとめの部分
絵具でありながら像を結ぶことの二重性
その像を成立させている手業の痕跡
コンピューター上の画像の筆跡はマウスやペンタブレットというインターフェースで現れるか?
そんなことはない
電子的に仮構されたコンピューターが絵具とキャンバスの代わりに用いられることのほうが重要
デフォルメされたサイズの、キャラクターの造形である
元は写真
そこに手が加わっている、という過程を残すように作っている
痕跡
ピクセルであることが明らかであるにもかかわらず、それが像として現前していること
ドット絵の最小の手数による十全性
奇跡的
デフォームも最小限の手数で人間がキャラになる奇跡
結果が最小限なだけで実際は無数のundoがあるかもしれないのがデジタルの世界 1ピクセルが小さくなる
という状況ではジャギーは確信犯的に使われることになる
過去は不可避的に現れていたが今は美意識の現れになった
結論
像の現前とは、そもそも絵が持つ魔力(=魅力)であり、最っ証言の手数でそれが十全に成立しているものは、それゆえにそのメディウムを明らかにし、美しい、という話である。
像の現前に演算処理が介在いsていることの、その画像的なあらわれを画像の演算性の美学と呼びたい。
画像の演算性の美学とは、かのSFの命題のごとく、行動に魔法化し、透明化していく画像というメディウムについての、それが透明化する前、その原理的な美についてのノートである。